まだ、世界といえるものが無かった時、ただ、虚空に一己の巨大な人がいた。後にミナカと名付けられるこの巨人は、その無限とも思える巨体を横たえ、無限とも思える時の中をただ一人で過ごしていたが、やがて、孤独に飽きて、両の眼より一粒ずつ、涙を流した。その清明なるものが陽となり、重濁なものが陰となった。やがて、世界に陽であるナギと陰であるナミが充ち満ちると、巨人はゆっくりと溶け出し、砂となり、風に吹かれて、散ってしまった。後には陽と陰に分かれた水だけが残った。
陽と陰の水は、互いに交歓し合い、巡るめく入れ替わっては、回り続けた。そこには一切の悲しみも苦しみもない、ただ流れ行きては天に昇る水のような夢の時だった。そんな水の中、陽のナギと陰のナミが交わるたび、少しずつ、塵のような、砂のようなものがこぼれては水底に溜まっていった。
ある時、その水底に一つの小さな芽が顔を出した。やがて、芽はすくすくと育ち、根を張り、双葉を広げ、茎を伸ばした時、柔らかなかんばせが顕わになった。それは生物、それは女であった。
陽の者も陰の者もみな、彼女に興味を持ち、あれやこれやと歓心を惹こうとした。そして、その時、欲が生まれ、それが自個となった。自は他と競り、個は全を欲した。そこに争いは始まったのである。
争いは争いを呼び、静寂だった水の世界には喧噪に満ち、陽の者、陰の者も水底に積もった塵を練って、泥の衣となし、それを纏って《龍》となり、戦い始めた。衣が破れれば、何度でも新しいものを練って、着替えた。そして、命が果てるまで、倒れ伏すまで、何度も傷つけあった。
この間、女には討ち取られた敵が捧げ続けられた。やがて、最後の1人までもが倒れた時、意志のあるものは誰1人無く、水の世界の全てが女に捧げ尽くされた。女はその根をいよいよ深く張り、枝を巡らして、高く高く伸びていった。食い尽くした全てをその身に変えて。こうして、7本の大枝をもったムスビという名の世界樹が生まれたのである。
しかし、全てを食い尽くしたムスビは、それで全てを為し尽くしたかのように眠り始めてしまった。その目が閉じられようとした時、どこからともなく、一羽の鴉がやってきた。右足にコンパス、左足に定規を掴んでいたが、これを打ち鳴らし、耳障りな鳴き声を上げ、世界の眠りを妨げようとしたのである。ムスビはその声を止めようと、ガー、ガーと鳴くその者を手で払い除けた。巨大な掌に打たれ、鴉は脆くも墜ちていった。
再び、ムスビの目蓋は閉じられようとした。だが、鴉はめげずに、今度は美しい唄を歌い出した。ムスビは薄れゆく意識の中、その唄に耳を傾けた。そして、段々と唄に引き込まれていくに連れ、世界の意識は目覚めていった。ムスビはついに微笑を浮かべながら、ゆっくりと目蓋を持ち上げた。
鴉は世界樹ムスビに結ばれている果実の中から特に大きなものを12個選び、コンパスを突き刺して、それをぐるりと一回転させると、まるで粘土を練るかのように、お盆状に丸くした。さらに定規を使って、お盆の上を平たくした。今日有る、11の《実の大地》はこうして作り出されたのである。
さらに鴉はムスビの実の内、今度は小さいものを取ると、嘴で穿って、中から種を取り出し、それをそれぞれ一つずつ、《実の大地》に蒔かせた。種の蒔かれたところには一つずつに一本、鴉は己の羽を引き抜き、挿しておいた。その羽に夜露が溜まり、種を芽吹かせた。世界樹ムスビの分け身たるカンナギはこうして生まれた。
それから、鴉とムスビは和合して、1人の子を為した。しかし、ヒルコと名付けられたその子は手も足も口も鼻も目も持たぬ不具であった。そのことを忌み、鴉はムスビの葉を取って、舟を造り、ヒルコをそれに乗せて、流してしまった。ムスビはその子を哀れみ、こっそりと、持てる全ての金をその舟に一緒に乗せてやった。
二柱はもう一度、子を為したがそれも不具の子だった。怒り狂った鴉は、アハシマと名付けられたその子を石臼で磨り潰し、その肉片を風に流して、ばらまいた。そして、疲れた鴉が眠り込み、一晩が過ぎた。鴉が目を覚ました時、多種多様な四つ足のものたちが地にのさばり、大きな吠え声を上げていた。
これを喜んだ鴉は、ムスビの果実から青いものと赤いものを選び、四つ足の者たちの前に投げ与えた。最初、それが何であるのかさえ、理解していなかった四つ足のものたちであったが、勇気あるものが赤い方の果実に口を付けると、他のものもそれに続いた。この時、あるものは種を吐き出し、あるものはそのまま飲み込んだ。その数がちょうど半々であったことから、飲み込んだ方を男、飲み込まなかった方を女と呼んで区別した。
青い果実はいつの間にか片づけられ、次に鴉は四つ足の者たちを集め出した。だが、ほんの一部の者たちしか集まらなかった。他のものは勝手気ままに方々を彷徨いているだけだった。鴉は集まった者たちに名を与えた。根を張るものミフネ、角あるものウヅミ、爪持つものトモエ、駆けるものヒヅメ、大きなものウナリ、羽ばたくものタケナワ、貪るものムクロである。さらに名を記す字を、それを書くために墨を造ることを教えた。こうして、世の生き物は智のあるものと智のないものに分かたれたのである。
そして、鴉はミフネたちを洞窟に集めると、その他の生き物をその前に並ばせた。そして、順番に桑(の実)、稲(米)、豆、麦、麻(の実)を手一杯に渡し、それらを食すようにと命じた。みなは喜んで食したが、ムクロはそれだけでは空腹が治まらなかった。ムクロはこっそりと洞窟に忍び込んだ。中程まで進んだ時、ミフネの1人、ハイヌウェレを見付けた。隅に潜んで様子をうかがっていると、彼女は頭を掻いて桑、目を掻いて米、耳を穿って豆、鼻を穿って麦、陰部を穿って麻の実を取り出していた。これを見たムクロは、彼女を喰えば、腹の中で五穀を生み続け、永遠に満腹するだろうと考えた。そして、思慮浅く襲いかかり、ハイヌウェレの肉を引きちぎり、腹の中に納めた。この時、零れた血が洞窟から流れ、地に染み込み、そこから五穀の花を咲かせるようになるのはまた、後の話である。ともあれ、しばらくは満悦していたのだが、やがてまた空腹を感じた。訝しんだ彼は鴉にこのことを話すと、鴉は烈火のごとく怒りだした。皆と分け合うべき食べ物を独占しようとした罪。大切なものを失わせた罪。そして、鴉の目を盗んで悪事を働いた罪。3つの罪状を宣言すると、鴉はその大きな嘴でムクロを摘み上げ、根の下へと放り投げた。
世界はこの時まで、ぼんやりとした薄暗がりであった。鴉は、闇に忍ぶような行為をするものがいるのは、この闇のせいだと言った。そして、鴉はムスビの口に己のくちばしをあてると、ムスビの中の陽のナギを少し吸い出した。そして、「光あれ」と叫び、火の玉を吐き出した。1つ、2つと吐き出した。これが虚空に輝く星たちの始まりである。
だが、1000個目を吐き出そうとしたところで息が詰まり、慌てて翼をばたつかせたため、無数の羽が飛び散った。あげくに、吐き出そうとしていた火の玉を飲み込んでしまい、胃の腑の中から燃え上がった。さらに火は彼が足場にしていたムスビの果実に移り、巨大な火の玉となってしまった。火の玉は御するものもなく世界中を駆けめぐった。